愛着障害を克服して感じた「怒りの感情」の変化

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「怒りは良くない感情」「イライラする自分は未熟だ」

そんなふうに思い込んでいた時期が、私には長くありました。
怒りを感じると、「私はダメな人間だ」と自分を責めてしまって、ますます心が苦しくなっていったのを覚えています。だからなるべく怒らないように、感情を抑えて、波風を立てないように、いつも周りに気を遣って生きていました。 

でも、愛着障害と向き合い始めてから、怒りという感情に対する見方が少しずつ変わっていったのです。 

私の中にいつも変わらずあったのは、母に対する怒りでした。
いい成績をとっても、「もっと頑張れるね」と褒めてくれない。
どんなに母を喜ばせても、気に入られるように振る舞っても、「あなたはダメ」と突き放されるような言葉を返される。

幼い私は、傷ついても泣くことすらできず、「私が悪い子だからだ」と思い込むことで、母との関係をつなぎとめようとしていました。
そうしてだんだん自分の感情にふたをするようになったのです。

あの頃を思い出してみて思うのは、本当はずっと、悲しみ怒りを感じていたということです。
「なんで、そんなこと言うの?」「なんで私を見てくれないの?」って。 

それでも長い間、その怒りを自分の中で正当化することができませんでした。なぜなら、母には「かわいそうな背景」があったから。
母はよく、父のことを悪く言っていました。「あの人のせいで私はこんなに苦労してきた」「もっとこうしてくれたらいいのに」って。今の私なら、「不満があるなら本人に言えばいいじゃない。」と言えるのですが、当時はそんな母の被害者意識を聞き続けるうちに、私は「母は傷ついている人なんだ」「守ってあげなきゃいけない」と思うようになってしまいました。

そして気づけば、私自身も父に対して冷たい態度を取るようになっていました。
母のつらさを理解しようとするあまり、いつしか私の中で「母=味方」「父=敵」になっていたんです。 

今振り返ると、それは母の価値観をそのまま受け取って、自分の視点を失っていたのだと思います。
母がどう感じていたか、何をしてほしいのか。そればかりを気にして、自分自身の感情や考えは後回しにしてきました。

でも、愛着障害の理解が進むにつれて、自分を客観的に見られるようになっていきました。
母に対して怒っていたのは、私の中に本当に傷ついた気持ちがあったから。
理不尽に否定され続けたことも、必死に母の期待に応えようとしてきたことにも、「苦しい」「悲しい」という私の感情がありました。

でも本当は、母が傷ついていたことと、私が傷ついたことは、どちらも事実として存在していてよかったんです。
母の苦しみに共感することと、自分の怒りや悲しみを感じることは、どちらか一方を選ぶものじゃなかったんです。
そう気づいたとき、私は初めて、自分の感情を否定せずに受け止められるようになりました。 

怒りって、ただ爆発するものではないし、人を攻撃するためのものでもありません。
その奥には、たいてい「悲しい」「寂しい」「傷ついた」といった、もっと繊細な感情が隠れている。
それに気づいてからは、イライラしたときこそ「どうしたの?」「何がつらかったの?」と、自分に優しく声をかけるようになりました。
そして、「そうだよね」「ちゃんと見てもらいたかったよね」って、自分の味方になってあげることを意識しています。

以前の私は、怒りを感じることにすら罪悪感を持っていたけれど、今の私は、「怒り」とは、大事な感情のひとつだと感じています。
怒りは、自分の「大切にしているもの」に触れられたときに生まれるサイン。
我慢し続けてきた私が、自分のことを守ろうとした証なんですよね。 

怒りの裏にある声に耳を傾けるようになって、私はやっと、自分の人生を自分の視点で取り戻しつつあります
母のために、母に合わせて生きてきた長い時間があったからこそ、今はその分、自分自身の思いに寄り添って生きていきたい。

怒りに苦しんでいる方がいたら、その怒りを「なかったこと」にしないでほしい。
怒りの奥には、ちゃんと「あなたの気持ち」があります。
どうかそれを、大事にしてあげてください。

怒りって、実はあなたがあなた自身を大切にしたいと思っている証なんですから。

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